そこにないものの共有:「ALWAYS」の模造記憶 [cinema]
平日に半日ほど時間がとれたので、急きょ「ALWAYS 続・三丁目の夕日」を観に近くの映画館へ。
前作を観たときは、泣き腫らした目でうつむきながら映画館を出たんですよねー。
今回も、泣きのツボではしっかり泣いてしまったけど、笑っちゃうシーンはもっと多くて。
子どもたちや六子(堀北真希)の成長ぶりに目を細める、三丁目のおばちゃんになった気持ち。
メインとサブのお話もうまくからみ合って、2時間半があっという間でした。
日テレで大々的に宣伝しているし、観る方も多いと思うので、内容については簡単に。
舞台は前作から4か月後、昭和34年春以降の、東京・夕日町三丁目。
ここに住む人びとに起きた、不思議な出会いや心温まる出来事が描かれていきます。
鈴木オートも茶川商店も、もちろん健在。
詳しくは、公式サイトへどうぞ~!→ http://www.always3.jp/
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ところで。
いま内田樹の「村上春樹にご用心」を読んでいるんですけど、
この中の「太宰治と村上春樹」という章を読んでいたら、
「あっ! これって『ALWAYS』のことだ」
と思ってしまった部分が。
(ここから激しく脱線します。興味のない方はこの部分、読み飛ばしてくださいねw)
ウチダ先生は、村上春樹がなぜ世代と国境を超えて広く支持されているのかについて、
存在するものを共有できる人間の数には限界があるが、存在しないものを共有する人間の数に限界はないということを彼が知っていたからである。(『村上春樹にご用心』、P.90)
と書いています。その例として挙げているのが、
ドアーズ、ストーンズ、バーズ、ディープ・パープル、ムーディ・ブルーズ、そんな時代でもあった。空気はどことなくピリピリしていて、ちょっと力を入れて蹴とばしさえすれば大抵のものはあっけなく崩れ去りそうに思えた。……そしてあの不器用な一九六〇年代もかたかたという軋んだ音を立てながらまさに幕を閉じようとしていた。(村上春樹『羊をめぐる冒険』上、P.12)
という文章。
村上春樹は60年代のロックバンド名を列挙しているんですが、
ここでドアーズを真っ先に書いたところに彼の「職業的技巧」がある。
日本人がドアーズを聴きはじめるのは、ボーカルのジム・モリソンが死んで神話化され、
ロック史の「殿堂」入りをした70年代以後なんだそうです。
つまり60年代にこの音楽を聴いていたというのは、後づけの知識、つくられた記憶。
じゃあ「あのころ、ドアーズとか聴いてたよね」と同意を求められ、
「うんうん、そうだったよね」と読者がうなずいてしまうのはなぜか。
同じ音楽を聴いていたことに共感するのではない。「同じ音楽を聴いていた」という嘘を共有していることに共感するのだ。/私たちは「ほんとうの体験を共有している人間」より、「回顧的に構築された模造記憶を共有している人間」の方にずっと親近感を感じる。(『村上春樹にご用心』、PP.87-88)
映画「ALWAYS」が昭和34年当時の東京の風景を、
CGや小道具を駆使して過剰なまでに再現していることって、
この「バンド名列挙」に近い職業的技巧なんじゃないかと思うんです。
観客はたとえその当時を知らなくても、心の原風景として郷愁をおぼえる。
そのためには当時のリアルな風景ではなく、とても精巧につくられた「嘘」が必要。
この模造記憶を共有することで、映画はすべての世代をとり込むことに成功したんでしょう。
13歳の須賀健太くんですら、この情景を「懐かしい」と表現しているんですから(笑)
村上春樹が最初に挙げた「ドアーズ」みたいな感じで(違うか?)、
「ALWAYS」の山崎貴監督もちゃんと冒頭に仕掛けてます。
前作を観たとき(記事はこちら)は、ヤモリのシーンに「うまいなぁ」と感心したんですが、
今回はその比ではありません。こういうセンス、大好きですw
あっ、《そーすけさんのアドバイス》にしたがって、上映前にプログラムは見ませんでした。
おかげで大笑いしてきましたよー☆ そーすけさん、ありがとうございました!
映画のプログラム。
映画を観る前に開いてはいけません
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[今日のおやつ]
映画鑑賞の数日前に、セブンイレブンで思わず買ってしまった「ALWAYS」関連商品。
昭和38年発売復刻版の雪印アイススティックと、39年発売復刻版のカップアイスです。
とくにアイススティックのパッケージデザイン、すごく気に入ってしまいました。
でも昭和38年って・・・。映画の設定と全然関係ないのね(笑)