SSブログ

ブックカバーと本屋さん [散読記]

今朝の新聞に、「進化してますブックカバー」という記事が出ていた。

企業広告を兼ねているブックカバー、「ブラジャケ」(ブランドジャケットの略)というのが増えているそうだ。カラフルなデザインでリバーシブル、しかもカバー一体型のしおりもついている。

いままでブラジャケを出した企業はNTT、SONY、劇団四季など、約2年で44社。首都圏と関西で計106書店がブラジャケを置いていて、自由に持ち帰れるようになっているという。
全然気がつかなかったなぁ・・・って、最近大きい本屋に行っていないからしょうがないか。

もうひとつ紹介されていたのは、ダウンロードできるブックカバー。
ネットで検索してみたら、かなり充実したリンク集を見つけました。
http://camomile.main.jp/shupi/internet_resources/download_bj.htm

このサイトにも新聞にも紹介されている「福音館書店」のブックカバーは、あの「ぐりとぐら」で有名な山脇百合子さんのイラスト入り。ほんわかした動物たちが懐かしい~。

「本の雑誌社」が運営する「WEB本の雑誌」では、沢野ひとしさん作のちょっと不気味でかわいいブックカバーがダウンロードできる。

「本の雑誌」といえば、沢野ひとしさんのイラストと、なんといっても編集長・椎名誠さんである。
高校生ぐらいのころ、椎名さんのエッセイを手当たり次第に読んでいた。デビュー作の『さらば国分寺書店のオババ』は衝撃的なおもしろさだったし、『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』なんて、タイトルだけでも最高でしょ?

さらば国分寺書店のオババ

さらば国分寺書店のオババ

  • 作者: 椎名 誠
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1996/08
  • メディア: 文庫

 

もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵

もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵

  • 作者: 椎名 誠
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2000/04
  • メディア: 文庫



椎名さんの一連のエッセイと「本の雑誌」の言いたい放題な書評、彼らが本にかける異常なまでの情熱にあこがれて、「わたしも配本を手伝いたい!」と真剣に思っていた。
(「本の雑誌」は当時、人海戦術で学生の助っ人たちが書店に直接配本していたのだ。)

そんな「本の雑誌」とゆかりの深い本屋さんが、JR御茶ノ水駅の近くにある「茗渓堂書店」
本来は山の本の専門店なんだけれど、「本の雑誌」関連書籍が充実していて、時々サイン本も置いてあった。
この本屋さんのブックカバーとしおりは、沢野ひとしさんのイラスト入りなのだ。

これ目当てに、学生のころはよく茗渓堂に通ったのだった。
もっといろいろ持っていたんだけど、どこ行っちゃったかなー。

一番左のしおりに書かれたのは母親と男の子。その横に書かれた文字は、

あなた マコトも
一年生になりました
お元気ですか

沢野ひとし画伯、なかなか味わいがあるでしょう?


nice!(2)  コメント(8)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

斎藤美奈子~ナンシー関を読む [散読記]

いま斎藤美奈子氏の『誤読日記』を読んでいるところだ。
「週刊朝日」と「アエラ」に連載された書評をまとめたもので、巷で話題の本をとりあげては揚げ足取り、じゃなくて鋭い突っ込みを入れていく文章は、いつもながら小気味よい。

同じ系統としては『趣味は読書。』があって、これも切れ味のいい文芸批評である。
「ベストセラーなのに周りに読んだ人がほとんどいないのはなぜか?」という問題提起もおもしろかった。だって、わたしもベストセラー本になかなか手を出せない人間だから。告白すると、セカチューもイマアイも、ハリー・ポッター・シリーズさえ読んでいないのだ。まあ、これらの本の評価は別として、世にあるベストセラー本特有の、あのうさんくさい感じは何なのか。そういう疑問に答えを出してくれて、胸がスカッとする本だった。

で、『誤読日記』に戻るが、この本の第1章はタレント本がテーマである。乙武洋匡『乙武レポート』に始まり、花田憲子『凛として…。』、二谷友里恵『楯』、木村拓哉『開放区』等々、出版時に話題を呼んだ記憶のある本が続く。
しかしどうも物足りない。というか、読んでいて(こっちの)調子が出ない。しばらくして気がついた。タレントがネタになっているもんだから、無意識に「ナンシー関」的テレビ時評を求めてしまっていたのだ。
「文芸界のナンシー関」と言われるだけあって、この人の文芸批評は言葉は過激ながらも、非常に知的で信頼できると以前から思ってはいた。が、勝手に読み違えるとは。それだけわたしがナンシー関に飢えているということだ。

そんなわけで、同時並行してナンシー関『何だかんだと』を読みはじめた。
亡くなって以後の追悼出版ラッシュが一段落して、しばらく読まない期間が続いていたが、ひさしぶりに読むナンシー関は単なる時評のレベルを超えている気がした。新刊で出た当時のテレビ番組やタレントそのものの生々しい印象が薄れたぶん、テレビを取り巻く不思議な/困った状況の分析が際立っている。
たとえば彼女の題材としておなじみのキムタクを扱った「『木村拓哉不人気ブーム』到来の可能性を見た」。当時(2000年)放送された『木村拓哉の同学年』という番組を「木村拓哉の鼻毛だ」と書く。

みんなが木村拓哉の鼻毛を見てしまったのである。……従来のアイドルは「鼻毛なんかありません」と鼻毛を隠すことで成立してきたが、木村拓哉は、「オレ、鼻毛あるよ。あったりめーじゃん。まじでぇ」と言いながら、あらかじめ見せる形に刈り込んだ鼻毛(どんな鼻毛か)をちらちら見せていた。その「見せ用の鼻毛」は、木村拓哉の人気を特別なものに押し上げるのに多大な効果をあげた。バレてまずいのは、鼻毛が生えていることではなく「見せ用の鼻毛」を準備していたことだ。(49-50ページ)

ナンシー関がテレビ時評を書く時、その番組やタレントの本質をひと目で見抜く直観力と、そういうものを成り立たせる社会全体を捉える広い視野があった。そしてその社会には自分自身もいて、どうでもいいようなことに何だかんだと異論を唱えているという冷静な自覚。だから高所から偉そうに批評するわけでもないし、大衆の代弁者ぶって感情的になることもない。視点にブレがないのだ。

わたしにとっては最も信頼する書き手の一人だったので、いまだに喪失感が尾を引いている。家族や友人の文章を載せた『ナンシー関大全』や『ナンシー関―トリビュート特集』は、泣いちゃいそうで読む気が起きないし。
それで、いまでも時々ホームページ『ボン研究所』を見て、開くたびに画像が入れ替わる消しゴム版画を楽しんだりしている。田中邦衛の顔をマウスで追いかけるスクリーンセーバー「逃げろ! 邦衛!!」もダウンロードしたいところだけど、「Windows 95対応」と古いので残念ながら試していない。
このホームページ、メールフォーム以外はちゃんとリンクが生きていて、「記憶スケッチアカデミー」や消しゴム版画ライブラリーが見られるようになっている。生前から更新が滞りがちだったから、まだいまも続いているような感覚だ。ずっと残しておいてほしいな。

NANCY SEKI'S FACTORY『ボン研究所』:http://www.bonken.co.jp/


nice!(2)  コメント(6)  トラックバック(2) 
共通テーマ:

歴史を読み解くということ―網野史学との対話 [散読記]

日本って何だろうとか、日本人って何だろうと考えるとき、いつも思い浮かべるのは歴史学者の網野善彦氏のことだ。
網野氏は、歴史の表面には出てこない海民・山民などの非農業民や、海賊・悪党といった反政府的存在の意味を古文書から掘り起こし、中世の歴史学に斬新な視点を持ち込んだ人で、2004年に肺がんで亡くなるまでにたくさんの刺激的な著書をのこした。

わたしが初めて読んだ網野本は『異形の王権』である。聖なる力を結集して王権を強化しようとした後醍醐天皇を中心に、南北朝動乱という歴史の大きな転換点を解明しようとする労作で、異形の輩の派手ないでたちや飛礫(つぶて)打ち、密教儀式に傾倒する後醍醐天皇など、それまで見たこともない生々しい歴史の解読に興奮したものだった。

ところが、農業中心主義的な通念に縛られた歴史学界には、彼を敵視する人が多いらしい。
宗教学者・中沢新一氏と民俗学者・赤坂憲雄氏の対談『網野善彦を継ぐ。』と、中沢氏によるエッセイ『僕の叔父さん網野善彦』には、学界で異端視されながらも、強い信念を持って新しい歴史学を展開してきた網野さんの足跡が語られている。

(中沢)実証主義的歴史学は、文字の表面を読んでいくんですね。ところが網野さんは、おそらくこういうことを考えていたんだと思います。つまり、「歴史はつねに自分が語りたかったことを語り損なう」と。……古文書を前にしても、「ここには何か語り損なわれている欲望が隠されている」、そして欲望を掴み出す解釈を実践した。ところが、フロイト・マルクス以前に属する実証主義的な歴史学は、「そんなことはどこにも書いていない」と批判するんですね。
 書いてないはずですよ。欲望はつねに言語表現の表面からは否定されるものとしてしかあらわれてこないのですからね。ここが、網野善彦の学問の新しさだと思います。(『網野善彦を継ぐ。』36ページ)

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』以降は、権力の及ばない避難地である寺社や山林などの「アジール」の問題が網野氏の重要なテーマとなっていく。

 アジールは存在できない――それが現代人の「常識」である。その常識はメディアや教育や家庭をとおして、子供の頃から私たちの心に深くすり込まれている。今日の歴史学者とて、その例外ではない。アジールの実在感を感じ取ることのできないままに、アジール的なるものへの感性を抑圧する教育システムをくぐり抜けて研究者となった彼らは、近代以前の社会に生き生きと実在していたアジールの息吹を感じ取れなくなってしまっている。そういう抑圧された意識によって解読され、解釈された「歴史」なるものが、今日のアカデミズムを支配する歴史学を再生産する様式となっている。……
 歴史学とは、過去を研究することで、現代人である自分を拘束している見えない権力の働きから自由になるための確実な道を開いていくことであると、網野さんは信じていた。
……だから、アジールの研究は、網野さんの中でも特別な意味をもっていたのである。(『僕の叔父さん 網野善彦』69-70ページ)

 ところが国家を立ち上げる権力意志は、自分に突きつけられている否定性をあらわす、このアジールを憎んでいる。……近代に生まれた権力は、法にも縛られず、警察力の介入も許さず、租税を取り立てることも許さないこのような空間が、自分の内部に生き続けているのを許容することができなかった。そのためにアジールとしての本質をもつ場所や空間や社会組織は、つぎつぎに破壊され、消滅させられていった。
 しかし、そのことを「進歩」と言うのはまったくの間違いだろう。アジールを消滅させることで、人間は自分の本質である根源的自由を抑圧してしまっているのである。根源的自由への通路を社会が失うということで、「文化」は自分の根拠を失い、自分を複製し増殖していく権力機構ばかりが発達するようになる。ひとことで言えば、世界はニヒリズムに覆われるのだ。(『僕の叔父さん 網野善彦』96ページ)


話はそれるけれど、「そんなことはどこにも書いていない」と歴史学界から総攻撃されるあたり、三谷幸喜氏が『新選組!』放送中に「歴史ファン」から受けた批判を思い出す。
正統とされる文献史料の文字面だけを追う歴史学では、歴史はただの年表に過ぎなくなってしまう。網野氏は襖の下張り文書のような本来は捨てられていた古文書や、絵巻物に描かれた異形の人々を読み解くことで、権力の手からこぼれ落ちる民衆のエネルギーをよみがえらせてくれたのだ。歴史を人間の手にとりもどすために。

過去を知ることは未来を創ることだという網野氏の信念は、どの著書にも通奏底音として流れているが、専門書は苦手という人でも非常に読みやすく、網野史学の魅力が凝縮されている本としてはこの1冊がおすすめだ。

日本の歴史をよみなおす (全)

日本の歴史をよみなおす (全)

  • 作者: 網野 善彦
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2005/07/06
  • メディア: 文庫


nice!(4)  コメント(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

宇宙が夢だった頃:レイ・ブラッドベリ「万華鏡」 [散読記]

日本人5人目のシャトル飛行士、野口聡一さんを乗せたスペースシャトル「ディスカバリー」の打ち上げが成功した。
20万ドルのお金さえあれば宇宙旅行に行ける時代になっても、「宇宙飛行士」という言葉を聞くと懐かしさや誇らしさに胸がふるえるような感じがする。自分が宇宙に行くわけでもないのに。

10代の頃、レイ・ブラッドベリの小説に夢中だった。
一人の作家の本をあれだけマニアックに蒐集したことはほかにない。
短編が1本でも載っていればアンソロジーも買うし、すでに持っている短編集でも違う出版社から出るとまた買うし、ふだん買ったことのない『ユリイカ』や『奇想天外』にも、ブラッドベリ特集の時だけは手を出した。

SFだけでなく、幻想文学も怪奇小説も少年小説もそれぞれにいいので、1作だけ選ぶのは絶望的にむずかしいが、宇宙もので真っ先に思い浮かぶのは「万華鏡」だ。


航行中のロケットが爆発し、乗組員たちは真っ暗な宇宙空間に投げ出される。
密閉された宇宙服に守られ、通信機で交信をしながら別々の星に向かって漂流していくホリスと仲間たち。万華鏡のかけらのように、一人は月へ、一人は流星群の中へ、一人は母なる地球へ。
確実に近づく死を前にして、怒りと絶望と和解の時が訪れる。そして最後の通信が闇に消えたあと、地球に落ちていくホリスは、仲間を妬んで傷つけようとした自分のいやしさを悔やむ。

俺には何ができる? ぱっとしない、むなしい人生をつぐなうためにいま何ができるというのか? 俺が長年かかって集めてきて、それでいて自分のなかにそんなものがあるとは気がつきもしなかった、あのいやしい心。……
すべてが終わったいま彼はひとつでもいいことをしたかった。自分ひとりにしかわからないいいことを。……
大気圏にぶつかったら、俺は流星のように燃えるだろう。/「ああ」と彼はいった。「だれか俺を見てくれるだろうか」(川本三郎訳、サンリオSF文庫『万華鏡』より)


この短編もいろんな出版社のいろんな短編集で、いろんな翻訳者が訳していたと思う。
わたしが一番好きなのは、この川本三郎訳。引用した文章のあとに最後のワンシーンがあるのだけれど、セリフのほんの一語、というか語尾の違いで、ラストの余韻がまるで違ってくるから不思議だ。

ブラッドベリの作品は当時、萩尾望都によって漫画化されたものが単発で週刊マーガレットに掲載されていた。これは現在、文庫化されたものが手に入る。収録されているのは宇宙飛行士への少年の夢を描く「ウは宇宙船のウ」のほか、「泣きさけぶ女の人」「霧笛」「みずうみ」「ぼくの地下室へおいで」「集会」「びっくり箱」「宇宙船乗組員」と名作ぞろいだ。また、この人ほどブラッドベリのエッセンスを見事に抽出できる漫画家はいない気がする。

ウは宇宙船のウ 

 

 

 

 

そういえば昔、「万華鏡」の読み比べに刺激され、自力で訳してみたくなって『刺青の男』の原書を買い、1ページ目で早くも挫折したのだった。その本はいまも未練たらしく本棚の隅に置き去りにされている。無謀な10代の頃の夢の名残りである。


nice!(3)  コメント(5)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

国枝史郎「神州纐纈城」 [散読記]

最近夏バテのせいか、胃がむかついて調子悪いです。
こうなると帰りの電車の中で本は読めません。
昔、貧血を起こして電車を停めてしまった前科があるからです。

その時読んでいた本が、この『神州纐纈城 (しんしゅうこうけつじょう)』。

作者の国枝史郎は大正期に活躍した伝奇作家です。この作品をはじめとして、幻想と怪奇とロマンがドロドロと入り混じった独特の小説を数多く残しています。

時は戦国時代。武田信玄の寵臣の一人・土屋庄三郎は夜桜見物に来た神社の境内で、布売りの老人から半ば強引に深紅の布を売りつけられます。この布は「纐纈布」、すなわち人の血で染められた布。そこに浮かびあがる父の名を見た庄三郎は、富士の裾野にあるという「纐纈城」に父が捕われていると直感し、不思議な紅巾に誘われるように一人富士山麓に向かいます。
追手の少年武士・高坂甚太郎、殺人鬼の陶器(すえもの)師、面作師の月子など、登場人物の悪党ぶりも魅力的です。そして舞台は魑魅魍魎が棲む本栖湖の纐纈城と富士教団へ。
物語の背景には、庄三郎の幼き頃に行方知れずとなった両親と父の弟の三角関係、その愛憎が生み出した悲劇が見え隠れします。

妖しい造顔手術を施す月子、纐纈城の残忍な城主、奇病に斃れる人々。怖がりのわたしは本来この手のグロテスクな描写はからきし苦手なのに、うっかり読み出したらもう止まらない。魔界の沼にずぶずぶと引きずり込まれていくのです。そして読み終えた瞬間、全身の血の気が引いて――。
気がついたら電車の座席に寝かされておりました。

この小説、じつは未完です。しかし未完であるがゆえにラストシーンは鮮烈でした。
いま思い出しても貧血起こしそうです。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

ロンドンの出来事、ジャーナリズムの未来 [散読記]

大学で英文学を教えている知人が、ロンドン同時多発テロの直後に友人のイギリス人数人にメールで安否をたずねました。幸い家族・友人ともに無事だとすぐに返事がきたのですが、その内容というのが、ロンドン市民の冷静さと認識の深さがうかがえて興味深いものでした。

'Everyone is terribly shocked, but still very determined to get on with life as usual'
'The important thing is to keep going and not change your way of life'

みんなひどくショックを受けているけれど、それでもいままでの生活を変えてはいけない。動揺したり混乱したりせずにいつもどおりの生活を続けることこそが、いま一番大事なのだというわけです(ちょっと意訳)。テロリストの目的はまさに社会を混乱に陥れ、人々の不安を煽ることにあるのですから。

これに関連して、2冊の本を思い出しました。
武田徹『戦争報道』と、青山南『ネットと戦争』。

戦争報道

戦争報道

  • 作者: 武田 徹
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2003/02
  • メディア: 新書


ネットと戦争―9.11からのアメリカ文化

ネットと戦争―9.11からのアメリカ文化

  • 作者: 青山 南
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2004/10
  • メディア: 新書


どちらも9・11のあとに出版されたもので、現代の報道やジャーナリズムのあり方について考えさせられる刺激に富んだ本です。

『戦争報道』は第二次世界大戦やベトナム戦争、湾岸戦争などの報道をたどることで、戦争とジャーナリズムの密接な関係を描き、またジョージ・オーウェル、開高健、フランシス・コッポラといった作家やジャーナリストたちの数々の記述を通して、報道の主観性と客観性の意味を探っていきます。

一方、『ネットと戦争』は青山南氏が月刊誌『すばる』に連載している「ロスト・オン・ザ・ネット」の9・11以後の文章をまとめたもの。アメリカの作家や詩人、知識人たちはこの出来事をどう受けとめ、インターネットを通じて何を発信していたかを、ネット浮遊しながら丹念にすくい出しています。

9・11直後、アメリカのマイノリティたちがこぞって愛国心をアピールしていたこと。そこからイラク戦争に至る時期、アメリカのCNNニュースがゲームの始まりのように空爆開始までのカウントダウンをしていたのを思い出します。
報道は「事実」を伝えてはいても、どの場面を切り取るかによっていくらでも都合のいい物語を創りだすことができる。視聴者が受け入れやすい物語ほど危険です。そして知識人たちが「真実」のメッセージを発していたのは、センセーショナルに戦意高揚報道を繰り返すマスメディアとは全く別の場所だったわけです。
それに対し当時のイギリスのBBCニュースは、イラク戦争をきわめて客観的に、時には批判的に報道していたのが印象的でした。

どちらの本も、今後のジャーナリズムの可能性を個人のネットワークメディアに見出そうとしている点で共通しています。フィルターのかかった単一のマスメディアよりも、小さくて多様な「主観」に接することで見えてくる真実もある、ということでしょうか。


nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(1) 
共通テーマ:

リスクマネジメントとメディア [散読記]

さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』という本を、例によって人に借りて読みました。数時間もあれば読めてしまう、会計学の超入門書みたいな本です。
内容の一例を挙げると、(1)1000円のモノを500円で買うのと、(2)101万円のモノを100万円で買うのとではどちらが得か。50%引きの(1)が得のような気がしてしまうけど、(2)は1万円も得しているのだから、断然(2)が得。つまり、損得は%ではなく絶対額で考えよう――といった感じで、簡単明瞭にお金のレクチャーをしてくれます。

「ローリスク・ハイリターンを狙え」というくだりで思い出したのが、資産運用とか金融の業界でよく使われる「リスクマネジメント」という言葉。想定しうるすべてのリスク要因をつぶして、利益を最大化しましょう、という考え方です。
しかしこの「リスクマネジメント」って、どうも胡散臭くてキライです。
投資家から莫大なお金を集めて運用するファンド屋さんたちなら、もんのすごく利回りが低くたって利益は相当な額になるわけで、だったらリスクは低ければ低いほどいい。
でも最近、この手の考え方がモノづくりの世界にまではびこっているような気がするのです。

たとえば、国民の好感度が高く、スキャンダルを起こしそうになく、商品イメージを損なう恐れのない無難なタレントを、大企業がこぞって採用するテレビCM。ヒット作の二番煎じとリメイクで視聴率(あるいはスポンサー)や観客動員数を手堅く得ようとするドラマや映画。リスクを極力避けて、コアなファンに訴えるよりも薄く広く確実にお客を取り込もうってわけですが、これじゃあまるで自分の足を食べるタコです。
「株主利益を最大化するのが企業の使命」みたいなことがよく言われますが、モノのつくり手たる制作者、それを伝えるメディアが利益拡大のための器にすぎないなら、オリジナルなものなんて永遠に生まれなくなってしまう。オリジナルほどハイリスクなものはないですからね。

リスクマネジメントは、あらゆるリスクを片っぱしから数値化します。「数字の持つ説得力はすごい」と『さおだけ屋』の著者も書いていました。
だけど、そういう数字だけではモノづくりの価値は測れないはず。誰にも真似できない何かを創りだす力は、一か八かのギャンブルを許すリスクの許容力にかかっているのですから。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

ギャグをまぶした放浪文学、吾妻ひでお「失踪日記」 [散読記]

吾妻ひでおというと「ななこSOS」ぐらいしか知らない(しかも内容は覚えていない)のだが、不条理とか美少女モノのジャンルではコアなファンの多い漫画家という。
この人が自らの極限状況をギャグ漫画にして描いたのが『失踪日記』である。前々から気になっていたのだが、運よく知人から借りてやっと読むことができた。(買わなくてすみません)

失踪日記

失踪日記

  • 作者: 吾妻 ひでお
  • 出版社/メーカー: イースト・プレス
  • 発売日: 2005/03
  • メディア: 単行本

作者は少年雑誌でデビュー以来、雑誌の売上げに貢献すべく不本意な作品を大量に書きつづけるうち、漫画への情熱を失うが、活躍の場をマイナー雑誌に移すことで自由な表現を手に入れる。
しかし、職業漫画家から一種のアーティストの領域に足を踏み入れたことの重圧からか、次第にうつ・不安・妄想にとらわれるようになり、山に入って自殺未遂。そのまま失踪して路上生活者になってしまう。
警察に保護されて一時仕事に復帰したものの、再び失踪。その後アルコール依存症になり、精神病院へ強制入院となる。

――といった作者のここ十数年の実体験が、内容の深刻さと裏腹に、じつに軽いタッチでつづられているのである。

真冬の寒さのなか、ゴミ漁りをしてリンゴを見つけると、
「腐って発酵したリンゴは凍った手を暖めてくれた」「微生物ってすごいなァ」

強烈な禁断症状と幻覚に襲われ、自販機の酒を飲んで一息つけば、
「こんな目には二度とあいたくない 今後は酒を切らさないようにしなくては(やめようとは思わないのか!)」

状況はじつに悲惨なのに、重苦しい雰囲気がない。むしろ痛快でさえある。どんなに絶望的な状況に置かれても、作者には芸術家としてのプライドがあり、それがポジティブな「生きる意志」として彼を支えているからだろうか。
それにしても人間って強い。とても弱くて強い生き物だと思う。


nice!(1)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

さあドイツだ! [散読記]

2006年ドイツW杯出場決定、おめでとうございます。

フランス大会最終予選の時のゴタゴタはらはらとくらべると、
えらくあっさりと決めてしまった印象がある。
もちろん、ロスタイムの決勝点とかオウンゴール勝利とか、
一戦一戦それなりにはらはらしながらここまで見てきたんだけど、
「なんだかんだ言っても勝っちゃうもんね」と内心余裕があるところが、
あの時の心境との決定的なちがいだ。
日本代表、ほんとに強くなったんだなー(しみじみ)。

そんなわけで、この一冊。

サッカーの国際政治学

サッカーの国際政治学

  • 作者: 小倉 純二
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2004/07/21
  • メディア: 新書


小倉氏は日本サッカー協会副会長を務める人で、日本人初の
FIFA理事でもある。本書ではその理事を射止めるまでの苦労や、
W杯招致合戦におけるロビー活動というか根まわしというか、
W杯をめぐるFIFAの内情が結構ストレートに語られている。
予選開催地決定までの駆け引きなど、国際スポーツがいかに
政治力と外交術を必要とするかがよくわかるエピソードも満載。
といっても読後の印象はさわやかで、文章も読みやすい。
最後の章だけ先輩ヨイショという感じが否めないが、
こうして本大会出場の喜びを味わえる今、日本サッカー躍進を
陰で支えた人たちに感謝したい気持ちだ。アリガトウ!!


nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(1) 
共通テーマ:スポーツ

南方熊楠と南セントレア [散読記]

南紀熊野が世界文化遺産に登録されたのは去年の7月のこと。
それからしばらくたって、朝日新聞に「熊楠特集」の小記事が載っていたのを
きっかけに、南紀を代表する博物学者・南方熊楠の本を少しずつ読んでいる。

まず入門編として、神坂次郎氏による熊楠伝『縛られた巨人』。いやー、
痛快な人物だ。博物館が服を着て歩いているような博覧強記ぶり、
欧米の学者と対等にわたりあい英語の論文を次々と発表する
天才でありながら、大酒飲みで喜怒哀楽の情が過剰に濃く、
時に常軌を逸した行動をとる「奇人」でもある。
膨大な書簡と論文を集めた『南方マンダラ』『南方民俗学』も、
さんざん脱線しつつスケールの大きな論考が語られていて、
私のごとき凡人にはすべては理解できないながらも文章にユーモアと
勢いがあって面白い。残りのシリーズ本が在庫切れで手に入らないのが
残念である。

その熊楠が一時期、学問の時間を犠牲にしてまで孤軍奮闘したのが
神社合祀反対運動だ。明治政府による神社合祀令とは、一町村一神社を
標準として残りの神社を統廃合するというもの。
廃社となった跡地は民間に払い下げできるし、神社の森の神木は切り放題で
大儲けできるというわけで、特に古い神社や祠の多かった三重県と
和歌山県では「悪徳官吏や神主たち」によって大半の神社が廃止され、
森は丸坊主にされてしまう。
これでは研究対象の植物も粘菌も、共同体の心の拠りどころさえも
消えてしまうと怒った熊楠は、地方官吏の悪行を皮肉たっぷりに暴露する
文章を新聞各紙に寄稿したり、議員を通じて国会でアピールしたり、
あらゆる手を尽くして合祀を食いとめようとした。自然保護運動の先駆けと
いわれるゆえんである。

先日の「南セントレア市」をめぐる騒動は、なんだかこの神社合祀を
連想させる。最近の市町村合併ブームのなか、私が生まれた市の名前は
消えてしまった。でも「南セントレア市」をはじめとして、合併を白紙撤回した
市町村も少なくない。反対する理由のひとつが「地名がなくなること」。
実際、私も新しい市名にはなんの愛着もわかないし、子ども時代を
消されたような気分だ。
ただ、世界遺産の紀州の山奥では、いくつかの村が過疎に悩みつつも
合併に加わらず、自立の道を選んだ。そこにはいまも熊楠のスピリットが
生きているような気がする。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。